庄野真代 [歌手]
しょうのまよ
庄野真代 [歌手]
しょうのまよ
出身地 | 大阪 |
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星座 | 山羊座 |
血液型 | あきらかにB型 |
性格 | 温厚・潔い |
趣味 | 体を動かす事・資格取得 |
持ち物 | 体力・勇気・夢 |
1976年フォーク音楽祭をきっかけに、日本コロムビアからデビュー。
1978年「飛んでイスタンブール」「モンテカルロで乾杯」などが大ヒット。
ニューミュージックを代表するシンガーとして活躍。作曲、執筆、舞台演劇など多方面での活動も多い。
1980年休業宣言をして世界一周旅行に出発。28カ国132都市を歩く。帰国後は音楽活動をと共に執筆・公演活動を開始。2000年法政大学人間環境学部に入学。02年英国University of Westminsterに留学。06年早稲田大学院アジア太平洋研究科修了。同年NPO法人国境なき楽団を立ち上げ、音楽を通した社会貢献活動を展開。現在は国境なき楽団PLUS代表。2014年より法政大学人間環境学部兼任講師を務める。子ども食堂しもきたキッチン主宰。大阪出身。
誕生
1954年12月23日、大阪の阪大病院にて2500gにちょっと足りない未熟児として誕生。 宝塚歌劇団に入りたかった母は自宅で洋裁店を営み、流しの兄ちゃんになりたかった父はメッキ工場の職人として働いていた。両祖父母にとっても初めての孫であり、「蝶よ花よ」と育てられる。 今思えば、将来歌手になる遺伝子はあったんだなぁ・・・。
病弱な少女時代
すぐに熱を出し、しょっちゅうお腹が痛くなる子どもだった。 保育園では部屋の隅にじっとしているシャイな子。お弁当の時間も一人でボーっとしているので、先生が心配して出前のうどんを食べさせてくれたとか。でも、本当は自分のお弁当が気に入らなかったの。フタを開けたら麦ごはんにウナギのかば焼きだったから。この頃淀川にはウナギがいて、父は、栄養補給のためにと毎日ウナギ捕りに懸命だった。
学芸会で主役に抜擢
6歳の6月6日にお稽古ごとを始めると上達する・・ということで、叔父がオルガンを買ってくれた。上達はともかく、オルガン教室に通って音楽が好きになり、子どもながら「芸」を磨き、学芸会やクリスマス会など発表の場で歌ったり踊ったり。衣装はいつも母の手づくり。とってもステキなんだけど、出来上がるのが必ず当日の朝でヒヤヒヤした。
活発な女子に
給食の時間には父が学校に迎えに来て自宅で昼ごはんを食べる虚弱児だったのに、9歳の時に大病で入院したあと、何故か元気になる。 5・6年の担任の先生は、児童の得意なことを伸ばす指導方針で、チャレンジの機会をたくさんくれた。水泳大会で新記録を作ったり、絵画展に入賞して作品がサンフランシスコにいったり、公園の掃除を1年つづけて表彰されたり。卒業文集にはなんと初の作詞作曲の歌がのった。
GSに夢中
歌番組が大好きだった。黛じゅん、弘田三枝子、ピンキーなどパンチのある歌手の真似をし、GS(グループサウンズ)にも夢中。テレビの前にほうきを持って立ち、それがマイクだったりギターだったり、畳を揺らしながら歌ってた。中1の時、家から自転車で30分くらいのところにあるプール施設に中尾ミエとジャガーズが来る! はじめて見る芸能人に興奮したが、GSで一番好きなのはタイガースだったの。
生徒会長
中学時代は生徒会活動にのめりこみ、3年には生徒会長に。会則を見直そうと奮闘して、男子の長髪を許可し、女子のソックス丈も自由にした。 3つの中学校の合同会議でカッコいい男の子に出会う。隣の中学の生徒会長で、野球部のキャプテンで、バンドをやっているという。翌日、門の前で待ち伏せして「バンドに入れてください」と声をかけた。
高校時代
高校入学と同時に演奏活動をはじめる。はじめはタンバリン、次にギターを教わって弾き、コーラスもするようになって、「翼をください」が流行った時にリードボーカルを担当した。その後メンバーは受験勉強のために減ったが、関西アマチュアフォーク界では知る人ぞ知る「もんしろちょう」としてオーディション荒らしに明け暮れた。 学校では器械体操部に籍をおくものの、バク転ができず長続きしなかった。
ヤマハボーカルオーディション
第一志望の大学に落ち、合格校の入学金を納めに行く途中、「納得がいかない」と浪人を決意。バイトをしながら音楽ソロ活動中にヤマハボーカルタレントオーディションに受かり上京。学芸大にある寮に住み、恵比寿までレッスンに通い、時々は池袋の「ぶらんでーと東武」のゴーゴークラブで歌う。三重県の合歓音楽院でも半年の研修を受け、ヤマハのポプコン会場で譜面歌手として応募者の曲を歌う仕事をしていた。
フォーク音楽祭
ヤマハでは恵まれすぎてぬるい感じ・・と大阪に戻って千里中央のレストランで歌い始める。が、ここでも実りはなく、「歌はやめます・・」と家族に宣言。最後のチャレンジとして、「フォーク音楽祭」に応募した。20才、人生の節目に記録に残ることをしたかった。結果、関西四国決勝大会でグランプリを獲得し、全国大会でスカウトされる。この時の自作自演作がデビュー曲「ジョーの肖像」である。